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【違国日記】他人を受け入れるということ

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マンガ「違国日記」は人見知りの慎生と両親を交通事故でなくした慎生の姪である朝の共同生活を元にそれぞれの生き辛さを描いた作品です。

 

主人公のひとりである慎生は先程も書いた通りかなりの人見知りです。というより発達障害という設定で描かれているようです。小説家として生計を立てているのですが人と会わない日・一度も外出しない日が数日続いても「それが快適だ」とさえ感じて生きています。

 

そんな彼女ですが話数を重ねていくことに友人にも恵まれ、恋人もいたことがわかります。決してコミュニケーション能力が高いとは言えない彼女ですがきちんと狭く深い人間関係を築けています。

 

孤独を愛する彼女ですが本当の意味で孤独ではないのは、彼女が他人をありのまま受け入れることができているからではないかと思います。

 

【目次】

 

慎生はコミュ障だけど他人をありのまま受け入れられる

「違国日記」は朝の両親が交通事故で亡くなる場面から始まります。朝は慎生の姉の娘でいわゆる姪です。15歳になる彼女はある日突然交通事故で両親をなくし天涯孤独になってしまいます。

 

そんな朝を引き取ったのが慎生でした。慎生は小説家として生計を立てています。年齢は35歳になりますが1巻の時点では独身で恋人もいません。

 

ひとりの時間が好きで、人とコミュニケーションをとるのが苦手で多くの時間を文章を書きながら孤独に過ごしています。彼女はそれを寂しいとは思ってはおらずむしろそんな日々を愛していました。

 

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出典:違国日記(1)

 

朝の両親がなくなった日、慎生は朝と朝食を食べに行きます。両親がなくなったことを受け入れることができず悲しいと思えない朝は「自分は変なのかもしれない」と感じます。

 

それに対して慎生は「へんかもしれない。でもあなたの感じ方はあなただけのもので誰にも責める権利はない」と、朝の感じ方を責めることなくありのまま受け入れます。

 

この場面を読んだ時、私は少しびっくりしました。もしこの場にいたのが自分だったらそれなりのことを伝えつつも、心の底で「悲しくないのは変」「実は両親はひどい人だったのかな」と思ってしまいそうだったからです。

 

否定しない。肯定もしない。ただただ「そうなんだ」と受け入れることって自分に意思がある限りそんなに簡単なことじゃないです。

 

だから改めて、他人をありのまま受け入れるってこういうことなのかもしれないと思いました。

 

自分のダメさを実感している方が他人のダメさを受け入れられる

「違国日記」は淡々と「よくありそうな日常」を切り取ったようなマンガなのですがよいしょよいしょで慎生の生き辛さが描かれています。

 

慎生は「当たり前のことが当たり前にできないこと」を自覚しています。人とコミュニケーションをとるのが苦手だし、部屋を片付けるのも苦手だし、人との約束を忘れてしまうことも日常茶飯事。

 

できないことを自覚しながら、生き辛さを抱えたまま、朝と共同生活を始めた慎生はたびたび朝と衝突します。

 

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出典:違国日記(4)

 

上記は片付けられない慎生が朝に「なんでこんなこともできないの」と責められている場面です。

 

当たり前のことを聞いたと思った朝は慎生が想像以上に自分の言葉に傷ついたことに驚きます。当たり前のことを当たり前にできないことは当然変なことのはずなのになぜ変だと言われて傷つくのか。傷つくそっちが悪いんじゃないか。朝にはそんな気持ちがあったと思います。

 

でも慎生にとって当たり前のことは当たり前のことではなく、前々から「普通ではない」ことにコンプレックスを抱いていた慎生は傷つき「私が何に傷つくかはわたしが決めることだ」と声を荒げます。

 

普通ってよく聞く言葉ですがすごく基準が曖昧ですよね。「普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供産んで...」なんて言葉をたまに聞きますが「それって普通じゃなくない?」とよく思います。でも私の親世代からしたらそれはきっと普通なのでしょう。

 

友だちがいることが普通。恋人がいることが普通。正社員で働いていることが普通。結婚することが普通。世の中にはたくさんの普通があって、その範囲からなるべく外れないように生きている人もいます。でも本当はその普通のことができない人って思った以上にたくさんいて、実は普通ってめちゃめちゃ高度なことです。

 

慎生は自分には欠点がたくさんあることを自覚しています。だからこそ他人をありのまま受け入れられるんだと思います。

 

期待しないからありのままを受け入れられる

「違国日記」には慎生とは反対に「自分はできる」と思っていたキャラがいます。彼は厳しい家庭で育ち、優秀に育ちました。それ故に完璧主義者な面があり、相手にも自分と同じ基準を求めることがありました。

 

相手にも自分と同じ基準を求めることって言いかえると期待していることになります。

 

頭の中で「きっとこうしてくれるだろう」「ああしてくれるだろう」と予測して、予測通りにならないと落胆する。期待するって評価しているということにも繋がりますが、勝手に期待された方は期待に答えられなかった時に自分は何も悪くないのに罪悪感を感じます。

 

例えば他人に料理を作った時、「作って」と言われていないのに作って、美味しいの一言も感謝もなかった場合、作った方が損をした気持ちになると思います。「あなたのために作ったのに何もないなんて」って。それって勝手に感謝を期待して、勝手に相手にがっかりしたということです。

 

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出典:違国日記(7)

 

「誰のために何をしたって人の心も行動も決して動かせるものではないと思っておくといい。ほとんどの行動は実を結ばない。まして感謝も見返りもない」

 

期待しないと他人をありのまま受け入れられます。感謝をされないことも見返りがなくてもがっかりすることはない。最初からそういうことは起こらないと思っているから。

 

「何も期待していない」というととても薄情に思えるかもしれません。でもそれはありのままを受け入れるのと同等で、実はとても優しい言葉なんだと気づきました。

 

発達障害をテーマにした「違国日記」

冒頭でも書いた通り、主人公の慎生は発達障害という設定です。作中ではハッキリと語られていませんが作者がインタビューで語っていたので間違いありません。

 

私はそのインタビューを読むまでまるでそのことに気が付きませんでした。確かに慎生は人付き合いが苦手で片付けが苦手な面が描かれています。でもそういった性格で個性なのだと思っていました。

 

だから発達障害がテーマだと知ってから読み返してみると作品の感じ方ががらりと変わりました。

 

慎生の当たり前のことができない姿も生き辛さもそういうことだったんだと思いました。

 

実は最近知り合った友人に「発達障害なんだ」と告白されました。それまで私はやっぱり全く気が付きませんでした。確かに彼女は忘れっぽくて、ミスが多いのですが、そういう性格なんだと受け入れていました。

 

「違国日記」の慎生とその友人に出会うまで、正直な話発達障害ってただごとじゃないと思っていました。発達障害の人と対面する時は普通の人とはどうしてもおもえないほどの違和感を感じるものだと思っていました。

 

でも「ちょっと変だな」「不器用だな」ぐらいで「違国日記」の慎生もその友人も自分とは大差ありません。無意識に差別的な考えを持っていたのだと気付かされました。

 

それに気づかせてくれ、なおかつ発達障害への理解を深まれくれたこと改めてこの作品に感謝したいと思いました。